2012年3月29日をもって、インプロゼミは解散しました。
私たちの代で始まり、私たちの代で終わったインプロゼミ。活動期間は1年半という短い間でしたが、その間の学びの質・量はどこのゼミにも負けていないと自負しています。
文字通り、最高のゼミでした。
今後、ゼミのメンバーはそれぞれの道へと進んでいきます。しかし、どの道へ進もうとも、みなインプロで学んだことを糧に、創造的な人生を送ることでしょう。
インプロゼミ、解散!
2012年3月16日金曜日
銀河ホール学生演劇祭振り返り
お久しぶりです。うつみです。
さて、前回のブログでは「インプロゼミは社会見学ゼミになりました」と書きましたが、このプロジェクトは暗黙のうちに終了しました。
そして今日のゼミでは、もっちーと僕が行った銀河ホール学生演劇祭の振り返りを行いました。インプロゼミとしては久しぶりのゼミですね、たぶん。
銀河ホール学生演劇祭を簡単に説明すると、岩手県和賀郡西和賀町にある銀河ホールで学生の演劇祭を行い、地域を活性化させようというイベントです。今回はプレ開催ということで、日本大学、多摩美術大学、東京学芸大学(正確にはSAL-MANE)が参加しました。
SAL-MANEは今回の企画で、インプロのワークショップとショーを行いました。1週間ほどの滞在の中で、ワークショップは小学生向け、大人向け、混合と10時間以上行いました。そして1時間のショーはその成果発表として行いました。
振り返りは『プロフェッショナル 仕事の流儀』風に行いました。僕があらかじめ書いておいた紙を、「ポーン」という例の音に合わせて出し、それを説明をするというスタイルです。文章では意味が分からないと思いますが、実際に見ても意味が分からないので大丈夫です!
なお、先に結論を書いておくと、今回のプロジェクトは「最高!」でした。したがって振り返りは、なぜ今回のプロジェクトがこんなに上手くいったのかを明らかにするという視点から行いました。
前半は、時系列に沿ってプロジェクトで行ったことやその場の様子について話しました。そして後半は、僕の個人的な振り返りを話しました。せっかくなので、ここでは後半の内容をシェアしておきます。はっきり言って内容は難しいですが、僕としては核心に近づいているという実感があります。
教えることをためらわない。=想像上の他者と争わない。
インプロの会は一応「インプロワークショップ」と名づけていましたが、実際には「インプロクラス」でした。つまり、インプロを教えるということを追求したクラスでした。
これまでワークショップを行うと、自分の中にはインプロを教えようとする自分と、インプロを教えることを止める自分が混在していました。まるで自分の中に想像上の他者がいて、その人と争いながら、もしくはその人に批判されないように行動していました。
しかし、今回のクラスでは「インプロを教える」ということをためらわない自分がいました。そしてその結果、伝えたいことが伝わるという結果になったように思います。
省察は自分を疑うためにも、信じるためにも必要だった。
では、どうして教えることにためらわない自分になったのかというと、それは省察を積み重ねてきたからだと思います。省察はジョン・デューイによって生み出された概念であり、「自分の信念について改めて考えること」を意味します。これは「自分の信念を意味づけすること」とも言えます。
はっきり言って、インプロが上達すること自体には価値はありません。中には「インプロが上達することによって、日常生活のパフォーマンスも上がる」といったことを言う人もいますが、「それなら話し方教室にでも通っておけ」と僕は思います。
しかし、インプロを通して学ぶこと、例えば失敗に対する恐怖との付き合い方や、創造性の構造とそれを発揮するための在り方などは、価値があることです。
これまで省察を積み重ねたことにより、今の僕は以前の僕よりもインプロに対するこのような意味付けが豊かになっています。その結果、自信を持って教えられるようになったのではないか、と考えています。
一般的に、省察は自分を疑うためのものと考えられています。これまでの自分の信念について疑うことで、新しい考え方が生まれてくる、といった具合です。
しかし今回の変化の中で、省察は自分を信じるためにも必要であることに気づきました。ある信念に対し改めて考え、それでもやはり大丈夫だと思ったとき、人はより自分を信じられるようになるのではないでしょうか。
「子どもの言動に理を与える」 by ドナルド・ショーン
省察は、僕がインプロ教える際にも核となる考え方でした。デューイの省察研究を発展させたと考えられているドナルド・ショーンは、省察的な授業とは「子どもの言動に理を与える」ことであると述べていましたが、今回その意味がより分かった気がします。
インプロをやっていると、良いシーンも出てくれば、悪いシーンも出てきます。これは料理の味と同じように直観的に、そしてほぼ確実に分かるものです。
しかし、なぜそのシーンが良くなったのか、悪くなったのかは分かりづらいものです。今回のクラスでは、良いシーンがあればなぜそのシーンが良くなったのか、悪いシーンがあればなぜそのシーンが悪くなったのか、その意味づけをしようとしました。
そしてその意味づけの過程で、失敗に対する恐怖との付き合い方などは自然に教えられたように思います。これは具体的に言えば、役者がリスクを取って失敗するシーンを見るとそれは良いシーンに見えるが、役者がリスクを取らず失敗もしないシーンを見るとそれは悪いシーンに見える、といった具合です。(ここらへんは実際にインプロをやったことがないと伝わりづらいですね。)
目的の沿って集まり、そして別れていく。(Act!Act!Act!)
今回のクラス&ショーは本当に素晴らしいもので、楽しいものでした。そしてこれはインプロを教える&学ぶという目的があったからこそ達成されたものだと僕は考えています。
今回参加してくれたメンバーは皆素晴らしい人たちでした。しかし、もし同じ人たちで集まってただ遊んだだけなら、これほどの楽しさは得られなかっただろうと思います。
人は目的に沿って集まり、そして目的が達成されたら別れていくものなのだろう、と僕は思いました。中には目的を共有しなくても楽しめる人もいるかもしれません。しかし、自分は目的が無ければ人とは関われない人間なのだな、と改めて思いました。
なお、これは舞台の上でも同じだと思います。例えば「何もするな」と言われて舞台の上に放り出されたら、多くの人は非常に大きな不快感を抱くだろうと思います。反対に、「これをする」というプランが詰まっていれば、人は舞台の上で生き生きとAct(目的を持って行動)することができます。
楽しいことでは続かない。価値あることなら結構続く。
もしインプロがただ楽しいだけのゲームであったならば、僕はすぐに飽きてしまっただろうと思います。なぜなら、感情はそもそも移ろいやすいものだからです。
しかし、今の僕はインプロを探究することに対して価値を感じています。だからこそ今までインプロを続けてくることができたし、これからもインプロを探究しようとしているのだろうと思います。そして今インプロが楽しいのは、インプロ自体が楽しいからというよりも、価値があることを探究することが楽しいからだと思っています。これは先程のActすることと同じことを表しています。
そもそも、スタニスラフスキー的に言うならば、感情はプロセスではなく結果です。そして、感情それ自体を生み出すことは人間にはできません。もしそれをやろうとすると、嘘くさい演技のようなものになってしまします。
学びは遊び。遊びは学び。
これまでの内容を総括する風に言えば、自分にとって学びは遊びであり、同時に遊びは学びなのだと思いました。
一般的には、遊びは無目的なものだと考えられているように思います。しかし僕は、もし本当に遊びが無目的であったら、人は遊べないのではないかと考えています。それはルールの無いサッカーでは、サッカーをすることができないことと同じように。
遊びの中でも、人はそれぞれ目的をもってActしているのではないか、と僕は思います。しかし、その目的はいわゆる目的と言われる固まったものではなく、その瞬間瞬間に生成される目的であるため、外から見たときには無目的に見えるだけなのではないか、と思います。
そして、瞬間瞬間に目的が生成される、というのはとてもインプロ的な感覚です。インプロでは「この方向で進めよう」とするとシーンは死に、その瞬間に思いついたことを表現するとシーンが生きます。これは「考える」とシーンは死に、「自分の創造性に寄り添う」とシーンが生きる、と言いかえることもできます。
これは「考える」ということが行き詰まっている現代において、一つの突破口になるのではないかと今の僕は考えています。しかし、それはまた今度のお話になりそうです。
おしまい。
さて、前回のブログでは「インプロゼミは社会見学ゼミになりました」と書きましたが、このプロジェクトは暗黙のうちに終了しました。
そして今日のゼミでは、もっちーと僕が行った銀河ホール学生演劇祭の振り返りを行いました。インプロゼミとしては久しぶりのゼミですね、たぶん。
銀河ホール学生演劇祭を簡単に説明すると、岩手県和賀郡西和賀町にある銀河ホールで学生の演劇祭を行い、地域を活性化させようというイベントです。今回はプレ開催ということで、日本大学、多摩美術大学、東京学芸大学(正確にはSAL-MANE)が参加しました。
SAL-MANEは今回の企画で、インプロのワークショップとショーを行いました。1週間ほどの滞在の中で、ワークショップは小学生向け、大人向け、混合と10時間以上行いました。そして1時間のショーはその成果発表として行いました。
振り返りは『プロフェッショナル 仕事の流儀』風に行いました。僕があらかじめ書いておいた紙を、「ポーン」という例の音に合わせて出し、それを説明をするというスタイルです。文章では意味が分からないと思いますが、実際に見ても意味が分からないので大丈夫です!
なお、先に結論を書いておくと、今回のプロジェクトは「最高!」でした。したがって振り返りは、なぜ今回のプロジェクトがこんなに上手くいったのかを明らかにするという視点から行いました。
前半は、時系列に沿ってプロジェクトで行ったことやその場の様子について話しました。そして後半は、僕の個人的な振り返りを話しました。せっかくなので、ここでは後半の内容をシェアしておきます。はっきり言って内容は難しいですが、僕としては核心に近づいているという実感があります。
教えることをためらわない。=想像上の他者と争わない。
インプロの会は一応「インプロワークショップ」と名づけていましたが、実際には「インプロクラス」でした。つまり、インプロを教えるということを追求したクラスでした。
これまでワークショップを行うと、自分の中にはインプロを教えようとする自分と、インプロを教えることを止める自分が混在していました。まるで自分の中に想像上の他者がいて、その人と争いながら、もしくはその人に批判されないように行動していました。
しかし、今回のクラスでは「インプロを教える」ということをためらわない自分がいました。そしてその結果、伝えたいことが伝わるという結果になったように思います。
省察は自分を疑うためにも、信じるためにも必要だった。
では、どうして教えることにためらわない自分になったのかというと、それは省察を積み重ねてきたからだと思います。省察はジョン・デューイによって生み出された概念であり、「自分の信念について改めて考えること」を意味します。これは「自分の信念を意味づけすること」とも言えます。
はっきり言って、インプロが上達すること自体には価値はありません。中には「インプロが上達することによって、日常生活のパフォーマンスも上がる」といったことを言う人もいますが、「それなら話し方教室にでも通っておけ」と僕は思います。
しかし、インプロを通して学ぶこと、例えば失敗に対する恐怖との付き合い方や、創造性の構造とそれを発揮するための在り方などは、価値があることです。
これまで省察を積み重ねたことにより、今の僕は以前の僕よりもインプロに対するこのような意味付けが豊かになっています。その結果、自信を持って教えられるようになったのではないか、と考えています。
一般的に、省察は自分を疑うためのものと考えられています。これまでの自分の信念について疑うことで、新しい考え方が生まれてくる、といった具合です。
しかし今回の変化の中で、省察は自分を信じるためにも必要であることに気づきました。ある信念に対し改めて考え、それでもやはり大丈夫だと思ったとき、人はより自分を信じられるようになるのではないでしょうか。
「子どもの言動に理を与える」 by ドナルド・ショーン
省察は、僕がインプロ教える際にも核となる考え方でした。デューイの省察研究を発展させたと考えられているドナルド・ショーンは、省察的な授業とは「子どもの言動に理を与える」ことであると述べていましたが、今回その意味がより分かった気がします。
インプロをやっていると、良いシーンも出てくれば、悪いシーンも出てきます。これは料理の味と同じように直観的に、そしてほぼ確実に分かるものです。
しかし、なぜそのシーンが良くなったのか、悪くなったのかは分かりづらいものです。今回のクラスでは、良いシーンがあればなぜそのシーンが良くなったのか、悪いシーンがあればなぜそのシーンが悪くなったのか、その意味づけをしようとしました。
そしてその意味づけの過程で、失敗に対する恐怖との付き合い方などは自然に教えられたように思います。これは具体的に言えば、役者がリスクを取って失敗するシーンを見るとそれは良いシーンに見えるが、役者がリスクを取らず失敗もしないシーンを見るとそれは悪いシーンに見える、といった具合です。(ここらへんは実際にインプロをやったことがないと伝わりづらいですね。)
目的の沿って集まり、そして別れていく。(Act!Act!Act!)
今回のクラス&ショーは本当に素晴らしいもので、楽しいものでした。そしてこれはインプロを教える&学ぶという目的があったからこそ達成されたものだと僕は考えています。
今回参加してくれたメンバーは皆素晴らしい人たちでした。しかし、もし同じ人たちで集まってただ遊んだだけなら、これほどの楽しさは得られなかっただろうと思います。
人は目的に沿って集まり、そして目的が達成されたら別れていくものなのだろう、と僕は思いました。中には目的を共有しなくても楽しめる人もいるかもしれません。しかし、自分は目的が無ければ人とは関われない人間なのだな、と改めて思いました。
なお、これは舞台の上でも同じだと思います。例えば「何もするな」と言われて舞台の上に放り出されたら、多くの人は非常に大きな不快感を抱くだろうと思います。反対に、「これをする」というプランが詰まっていれば、人は舞台の上で生き生きとAct(目的を持って行動)することができます。
楽しいことでは続かない。価値あることなら結構続く。
もしインプロがただ楽しいだけのゲームであったならば、僕はすぐに飽きてしまっただろうと思います。なぜなら、感情はそもそも移ろいやすいものだからです。
しかし、今の僕はインプロを探究することに対して価値を感じています。だからこそ今までインプロを続けてくることができたし、これからもインプロを探究しようとしているのだろうと思います。そして今インプロが楽しいのは、インプロ自体が楽しいからというよりも、価値があることを探究することが楽しいからだと思っています。これは先程のActすることと同じことを表しています。
そもそも、スタニスラフスキー的に言うならば、感情はプロセスではなく結果です。そして、感情それ自体を生み出すことは人間にはできません。もしそれをやろうとすると、嘘くさい演技のようなものになってしまします。
学びは遊び。遊びは学び。
これまでの内容を総括する風に言えば、自分にとって学びは遊びであり、同時に遊びは学びなのだと思いました。
一般的には、遊びは無目的なものだと考えられているように思います。しかし僕は、もし本当に遊びが無目的であったら、人は遊べないのではないかと考えています。それはルールの無いサッカーでは、サッカーをすることができないことと同じように。
遊びの中でも、人はそれぞれ目的をもってActしているのではないか、と僕は思います。しかし、その目的はいわゆる目的と言われる固まったものではなく、その瞬間瞬間に生成される目的であるため、外から見たときには無目的に見えるだけなのではないか、と思います。
そして、瞬間瞬間に目的が生成される、というのはとてもインプロ的な感覚です。インプロでは「この方向で進めよう」とするとシーンは死に、その瞬間に思いついたことを表現するとシーンが生きます。これは「考える」とシーンは死に、「自分の創造性に寄り添う」とシーンが生きる、と言いかえることもできます。
これは「考える」ということが行き詰まっている現代において、一つの突破口になるのではないかと今の僕は考えています。しかし、それはまた今度のお話になりそうです。
おしまい。
2012年1月28日土曜日
久しぶりのインプロその2~活動休止へ
こんばんは。うつみです。
前回久しぶりにインプロをやったインプロゼミ。でもまだ中途半端、ということで今回も再びインプロをやりました。今回のテーマはシーン作りでした(別に合わせたわけではないのですが、何となく合いました)。
ファシリテーターは前回と逆の順番にしよう、ということで1番はもっちー。丸めたタオルを投げながら、それにあわせて連想ゲームやワンワード物語作りをしました。もっちー曰く「何かを投げながらやった方がやりやすいし、もし止まったとしてもその様子が分かりやすくて次につなげやすい」とのこと。
2番はれいこさん。「タイプライターをやりまーす」と言って、椅子を準備。おもむろに座る僕。タイプライターとは、一人の役者が(架空の)タイプライターに物語をタイプし、それを他の役者が再現するというものです。タイプライターのアイデアと再現する役者のアイデアが絡み合って物語がすすんでいく……はずなのですが、そうはならず。いやー、僕のコントロール癖が出た感じですね。あとミステリーにしたのは挑戦しすぎでしたね。
3番はいーたん。Kenn Adamsの『How to Improvise a Full-Length Play』を取り出し、「結論を紹介します」と宣言。その結論は「Practice, practice, practice.」。みんなで復唱「Practice, practice, practice.」。そして「物語千本ノック」と称して全員で物語作りをしました。これは誰でも楽しく出来そうなので、やり方を詳しく書いておきましょう。
まず、Kenn Adams作の物語の素を説明します。
次に、参加者(9人がベスト)に1枚ずつ紙を配ります。そして、それぞれ物語のジャンルを宣言してもらいます(被らないほうがいい)。宣言が終わったら、それぞれ「1. むかしむかし、あるところに……」のところを書きます。書いたら、紙を時計回りで回します。そして「2. 毎日、毎日……」のところを書きます。これを繰り返すと、一周回った時に9つの物語ができあがり!となります。
いやー、面白かったですね。ナイスアイデア。
さて、休憩をはさんで4番は僕。「ExtendとAdvance(ひろげるとすすめる)」というゲームをやりました。話を途中で詳しくして、そこからまた話をすすめていくゲームです。詳しいルールは検索しましょう。いーたんの物語作りは確かに楽しかったんですが、あんまり「進める進める」ばかりだとしんどくなるので、広げてから進めるのはどうでしょう、ってことでやってみました。
そして振り返り。またも色々出すぎて忘れてしまったので内容は省略。覚えている部分もあるけれど、マニアックすぎるのでやっぱり省略。個人的には、4人のファシリテーションがつながっていたのが気持ち良く感じましたよ。
最後の話題は「来週何やる?」といういつものパターン。このままインプロを続ける目的は特に無いよね、ということで煮詰まっていたのですが、「そういえば他のインプログループはどうなってるんだろうね?」という話になり、「じゃー行ってみようか」という流れに。
というわけで、インプロゼミは社会見学ゼミになりました。いつものインプロゼミは一旦活動休止です。
前回久しぶりにインプロをやったインプロゼミ。でもまだ中途半端、ということで今回も再びインプロをやりました。今回のテーマはシーン作りでした(別に合わせたわけではないのですが、何となく合いました)。
ファシリテーターは前回と逆の順番にしよう、ということで1番はもっちー。丸めたタオルを投げながら、それにあわせて連想ゲームやワンワード物語作りをしました。もっちー曰く「何かを投げながらやった方がやりやすいし、もし止まったとしてもその様子が分かりやすくて次につなげやすい」とのこと。
2番はれいこさん。「タイプライターをやりまーす」と言って、椅子を準備。おもむろに座る僕。タイプライターとは、一人の役者が(架空の)タイプライターに物語をタイプし、それを他の役者が再現するというものです。タイプライターのアイデアと再現する役者のアイデアが絡み合って物語がすすんでいく……はずなのですが、そうはならず。いやー、僕のコントロール癖が出た感じですね。あとミステリーにしたのは挑戦しすぎでしたね。
3番はいーたん。Kenn Adamsの『How to Improvise a Full-Length Play』を取り出し、「結論を紹介します」と宣言。その結論は「Practice, practice, practice.」。みんなで復唱「Practice, practice, practice.」。そして「物語千本ノック」と称して全員で物語作りをしました。これは誰でも楽しく出来そうなので、やり方を詳しく書いておきましょう。
まず、Kenn Adams作の物語の素を説明します。
1. むかしむかし、あるところに……
2. 毎日、毎日……
3. ところが、ある日……
4. 5. 6. そのために……(繰り返し)
7. そしてついには……
8. その日以来……
(9. 教訓)
次に、参加者(9人がベスト)に1枚ずつ紙を配ります。そして、それぞれ物語のジャンルを宣言してもらいます(被らないほうがいい)。宣言が終わったら、それぞれ「1. むかしむかし、あるところに……」のところを書きます。書いたら、紙を時計回りで回します。そして「2. 毎日、毎日……」のところを書きます。これを繰り返すと、一周回った時に9つの物語ができあがり!となります。
いやー、面白かったですね。ナイスアイデア。
さて、休憩をはさんで4番は僕。「ExtendとAdvance(ひろげるとすすめる)」というゲームをやりました。話を途中で詳しくして、そこからまた話をすすめていくゲームです。詳しいルールは検索しましょう。いーたんの物語作りは確かに楽しかったんですが、あんまり「進める進める」ばかりだとしんどくなるので、広げてから進めるのはどうでしょう、ってことでやってみました。
そして振り返り。またも色々出すぎて忘れてしまったので内容は省略。覚えている部分もあるけれど、マニアックすぎるのでやっぱり省略。個人的には、4人のファシリテーションがつながっていたのが気持ち良く感じましたよ。
最後の話題は「来週何やる?」といういつものパターン。このままインプロを続ける目的は特に無いよね、ということで煮詰まっていたのですが、「そういえば他のインプログループはどうなってるんだろうね?」という話になり、「じゃー行ってみようか」という流れに。
というわけで、インプロゼミは社会見学ゼミになりました。いつものインプロゼミは一旦活動休止です。
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